セプティミウス・ セウェルス 出身

発行日: 24.09.2020

体制を固めたセウェルスはより大胆な外征を計画、 パルティア戦争 で敵国の首都クテシフォンを占領するなど大勝を得て、ティグリス川沿いまで領土を拡張した [4] 。同時に属州 アラビア・ペトラエア に建設されていた城壁「 リーメス・アラビクス 」の補強を進め、東方属州の拡大と強化に熱意を注いだ [5] 。自らの故郷である属州 アフリカ でも外征を行い、 ガラマンテス族 を破って「 リメス・トリポリタヌス 」を南の砂漠地帯にまで広げた [6] 。. ウィキメディア・コモンズには、 セプティミウス・セウェルス に関連するメディアがあります。.

治世後半も戦いに明け暮れる日々を過ごし、北方は ブリタンニア でピクト族との戦争に従事しつつ ハドリアヌスの長城 を補修した [7] 。セウェルスの死もそうした戦いの最中で起き、ブリタニア遠征中にエボラクムで病没した [8] 。死後は二人の息子 カラカラ と ゲタ が継承した為、新たな王朝として セウェルス朝 が成立した。.

名前空間 ページ ノート. セウェルス帝の死 年 からディオクレティアヌス帝の即位 年 までの50年間は、26人の皇帝が乱立する混乱の時代で、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う 軍人皇帝 の時代となった。. またセウェルスは露骨な身内贔屓でも知られており、彼の治世で立てられた建設物の殆どは故郷の レプティス・マグナ に集中した。数少ない例外は セプティミウス・セウェルスの凱旋門 だが、セウェルスは レプティス・マグナ にも同様の凱旋門を建設する事を忘れなかった。.

セウェルス軍は ニシビス へ行軍、配下の将軍ユリウス・ラエトゥスの活躍で攻撃を受けていた同地を防衛した [28] 。セウェルスは再びシリアに戻って補給を得た後、ペスケンニウス・ニゲルを支援していた東方の大国パルティアへの直接戦争を開始した。戦いはパルティアの首都クテシフォンを陥落させるなどセウェルス軍の圧勝に終わり、講和条約でティグリス川沿いまで領土を拡張した。. しかし一方で軍に対する優遇はコモドゥス時代に減らされた軍事費を再び膨大な額へと引き上げる結果となり、既に ネルウァ=アントニヌス朝 に表面化しつつあった軍事費の増大を決定的なものとした。セウェルスを支持した民衆も、肥大化した軍を支えるために重税を強いられるようになった。また軍を政治的に重んじて自らの権力基盤とする軍事独裁方針は後の軍人皇帝時代に繋がるものでもあり、同時代の歴史家( カッシウス・ディオ や ヘロディアヌス )からも既に辛辣な批判が行われていた。.

東の正帝ガレリウスは西の副帝セウェルスを正帝としたが、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌスも軍に推されて正帝を宣言した。この争いに勝利者となったのは コンスタンティヌス だった。テトラルキア体制は崩壊し、ローマは再び一人の皇帝が統治するようになった。. 一連の戦闘でセウェルスの支配は確実なものとなり、またその息子に帝位が継がれた事で内乱は終結して セウェルス朝 が成立した。.

[28]. 14 [7] [8]. : ISBN.

ドミティアヌス帝が暗殺されると、次に元老院議員だった ネルウァ が皇帝に就き、人類が最も幸福だった 五賢帝時代 パクス・ロマーナ:Pax Romana が始った。この時代は経済活動が盛んで、アジアの香辛料や絹が運ばれてきた。また、ロンドン、パリ、ウィーンなど多くの都市が建設された。  続く トラヤヌス帝 は、拡大政策をとり、ダキア ルーマニア 、メソポタミアを占領した。次の ハドリアヌス帝 の時代に、ローマ帝国は最盛期を迎えた。年にはエルサレムでユダヤ人の反乱 バル・コクバの乱 が発生するが、3年後にこれを鎮圧しユダヤ人を追放した。また、ブリタニアにハドリアヌス帝の長城を建設し、 ここを北辺国境と定めた。  次の アントニヌス・ピウス帝 の時代も平穏だった。最後の マルクス・アウレリウス帝 の頃に辺境の蛮族との戦いが激しくなった。しかし、帝国は何とか安定を保っていた。彼の息子 コンモドゥス は、快楽と欲望に身をつつみ国内は荒れ、年に親衛隊に暗殺されてしまう。. 母フルウィアは イタリア本土 出身の由緒正しい血筋であった [10] 。恐らく彼女はローマの古参氏族で、帝政時代には プレブス 階級に没落していた フルウィウス氏族 の末裔であると見られており、親類に近衛隊長や執政官を務めた ガイウス・フルウィウス・プラウティアヌス がいる [11] 。. 一覧 カテゴリ.
  • コンモドゥス帝後の数人の皇帝は、いずれも暗殺、敗北死という惨めな最後を遂げた。 そんな中、年に セプティミウス・セウェルス帝 (初のアフリカ出身の皇帝)が即位し、一時的に安定する。その息子 カラカラ帝 は、全自由民にローマ市民権を与えた。  セウェルス帝の死 年 からディオクレティアヌス帝の即位 年 までの50年間は、26人の皇帝が乱立する混乱の時代で、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う 軍人皇帝 の時代となった。  その頃には元老院の権威は失墜し、北方の ゲルマン人 や東方の ササン朝ペルシア の進入が激しくなる。年、 エデッサの戦い で ウァレリアヌス帝 はペルシア王 シャープール1世 の捕虜になりそこで生涯を終える事態まで発生した。.
  • セウェルス帝の死 年 からディオクレティアヌス帝の即位 年 までの50年間は、26人の皇帝が乱立する混乱の時代で、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う 軍人皇帝 の時代となった。.

五賢帝時代が去って~皇帝たちの迷走~(2)新時代の到来

母フルウィアは イタリア本土 出身の由緒正しい血筋であった [10] 。恐らく彼女はローマの古参氏族で、帝政時代には プレブス 階級に没落していた フルウィウス氏族 の末裔であると見られており、親類に近衛隊長や執政官を務めた ガイウス・フルウィウス・プラウティアヌス がいる [11] 。. 外征での勝利を重ねる一方、国内では 元老院 との不和を抱えた皇帝の一人でもあった。元々、軍事力で帝位を簒奪したセウェルスに対する反感は、帝位を競売で競り落とした ディディウス・ユリアヌス と比べてもそれほど差のあるものではなかった。そしてセウェルスの側も元老院を自らの皇帝権を認めようとしない存在として、彼らを軽蔑する事を躊躇わなかった。セウェルスは元老院内に蔓延していた退廃や汚職・謀議の一掃を行い、何十人もの元老院議員を処刑台に送った。そして後任に自らが選抜した者を登用した。.

セウェルス帝の死 年 からディオクレティアヌス帝の即位 年 までの50年間は、26人の皇帝が乱立する混乱の時代で、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う 軍人皇帝 の時代となった。. ペルティナクス ディディウス・ユリアヌス ペスケンニウス・ニゲル 僭称 クロディウス・アルビヌス 僭称 セプティミウス・セウェルス カラカラ ゲタ (共同皇帝) マクリヌス ディアドゥメニアヌス (共同皇帝) ヘリオガバルス アレクサンデル・セウェルス パッキア・マルキアナ ブリゲト?

セウェルスは順調に元老院での出世を重ね、アウレリウス帝死後のコンモドゥス帝からは要地である属州 パンノニア の総督に任命されていた。従って ネルウァ=アントニヌス朝 断絶後の五皇帝の年では重要な役割を担う事ができた。.

  • 更に間の悪い事に年に「アントニヌスの疫病」とも呼ばれる天然痘の流行がローマを襲い、暫くの間はセウェルスは故郷で静養を余儀なくされた [14] 。信憑性の薄い「 ローマ皇帝群像 」は実際には不倫疑惑から逃れるためであると主張している。だが諦めずに年になって再びローマに戻ると必要年齢を満たした財務官選挙に名乗りを上げ、見事に当選を果たした。12月5日、同職の就任によってセウェルスは元老院の名簿に記載された [15] 。.
  • 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.

[34] [35]. [19] [19]. :Pax Romana. [14] 125 [15] .

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案内メニュー 個人用ツール ログインしていません トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン. セウェルスは アウレリウス 帝と コンモドゥス 帝の親子二代に仕え、ローマの貴族階級における典型的な経歴を歩んだ。ネルウァ=アントニヌス朝断絶後の騒乱( 五皇帝の年 )で頭角を現して有力な皇帝候補となり、 ペルティナクス 帝の死後に実権を掌握した。彼は存命中の皇帝であった ディディウス・ユリアヌス を失脚させて自らが皇帝に即位した。. 一連の戦闘でセウェルスの支配は確実なものとなり、またその息子に帝位が継がれた事で内乱は終結して セウェルス朝 が成立した。.

1 2 1 2 2 1. 69   :   .

属州出身者からの即位

ウェスパシアヌス ティトゥス ドミティアヌス セウェルスは地理的に近いアルビヌスと手を結んで彼を副帝に指名して懐柔すると、東方属州へ遠征を開始した。 イッススの戦い でニゲル軍を破ると、一年間を費やして東方属州からニゲル派の勢力を駆逐し、また後ろ盾であった パルティア帝国 を押さえ込む事に集中した。そして東方の動乱を鎮めると、約束を反故にする形で息子のカラカラを新たな副帝に指名すると宣言、激怒したアルビヌスは再び軍を起こして抵抗した。 ルグドゥヌムの戦い は ダキア ・ モエシア ・ イリュリア の軍勢を中核にしたセウェルス軍の前にアルビヌス軍が大敗を喫して、アルビヌスは戦死した。.

セウェルス軍は ニシビス へ行軍、配下の将軍ユリウス・ラエトゥスの活躍で攻撃を受けていた同地を防衛した [28] 。セウェルスは再びシリアに戻って補給を得た後、ペスケンニウス・ニゲルを支援していた東方の大国パルティアへの直接戦争を開始した。戦いはパルティアの首都クテシフォンを陥落させるなどセウェルス軍の圧勝に終わり、講和条約でティグリス川沿いまで領土を拡張した。. 軍人皇帝 マクシミヌス・トラクス マクシムス (共同皇帝) ゴルディアヌス1世 ゴルディアヌス2世 (共同皇帝) プピエヌス・マクシムス バルビヌス ゴルディアヌス3世 ピリップス・アラブス ピリップス2世 (共同皇帝) デキウス ヘレンニウス・エトルスクス (共同皇帝) ホスティリアヌス トレボニアヌス・ガッルス ウォルシアヌス (共同皇帝) アエミリアヌス ウァレリアヌス ガッリエヌス サロニヌス (共同皇帝) クラウディウス・ゴティクス クィンティッルス アウレリアヌス タキトゥス フロリアヌス プロブス カルス カリヌス ヌメリアヌス (共同皇帝) カテゴリ : ローマ皇帝 セウェルス家 2世紀の古代ローマ人 護民官 年生 年没.

:Pax Romana. 17 [12]. : Wikipedia? [33] ! [1] [2] [3] .

2019年02月28日

コンモドゥス帝後の数人の皇帝は、いずれも暗殺、敗北死という惨めな最後を遂げた。 そんな中、年に セプティミウス・セウェルス帝 (初のアフリカ出身の皇帝)が即位し、一時的に安定する。その息子 カラカラ帝 は、全自由民にローマ市民権を与えた。. その頃には元老院の権威は失墜し、北方の ゲルマン人 や東方の ササン朝ペルシア の進入が激しくなる。年、 エデッサの戦い で ウァレリアヌス帝 はペルシア王 シャープール1世 の捕虜になりそこで生涯を終える事態まで発生した。. 軍人皇帝 マクシミヌス・トラクス マクシムス (共同皇帝) ゴルディアヌス1世 ゴルディアヌス2世 (共同皇帝) プピエヌス・マクシムス バルビヌス ゴルディアヌス3世 ピリップス・アラブス ピリップス2世 (共同皇帝) デキウス ヘレンニウス・エトルスクス (共同皇帝) ホスティリアヌス トレボニアヌス・ガッルス ウォルシアヌス (共同皇帝) アエミリアヌス ウァレリアヌス ガッリエヌス サロニヌス (共同皇帝) クラウディウス・ゴティクス クィンティッルス アウレリアヌス タキトゥス フロリアヌス プロブス カルス カリヌス ヌメリアヌス (共同皇帝)

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議論:
25.09.2020 04:05 Yutaka:
ネルウァ トラヤヌス ハドリアヌス アントニヌス・ピウス マルクス・アウレリウス ルキウス・ウェルス (共同皇帝) コンモドゥス またセウェルスは露骨な身内贔屓でも知られており、彼の治世で立てられた建設物の殆どは故郷の レプティス・マグナ に集中した。数少ない例外は セプティミウス・セウェルスの凱旋門 だが、セウェルスは レプティス・マグナ にも同様の凱旋門を建設する事を忘れなかった。.

28.09.2020 00:43 Ken:
セウェルスは動乱期のローマ帝国にとって必要としていた、外征に長ける「強き皇帝」であった。彼は幾多の戦いに勝利して、西方属州の国境(ゲルマニア地方)を除く全ての国境線を拡張し、城壁(リーメス)を大幅に補強した。同時に軍を厚遇する事でその士気と精強さも大幅に高めた。セウェルスの死後、ローマ帝国はカラカラ帝から 軍人皇帝時代 と約70年に及び暴政と内戦、異民族の侵入が吹き荒れる大混乱時代に突入するが、その中でもついに帝国滅亡を防ぎ得た一つの要因を作り出した功績は疑うべくもない。. バッシアヌスは年にセウェルスの婚姻提案を受け入れ、翌年の夏に両者は正式に結婚した [23] 。以前の妻より恐らくはより博識で野心高いこの妻にセウェルスは常に一目置き、政治的な議題を相談する事もしばしばであったという。跡継ぎについては、結婚から程なく マルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス (カラカラ)と プブリウス・セプティミウス・ゲタ という二人の息子を授かった [23] 。.

24.09.2020 21:54 Mirai:
セウェルスは地理的に近いアルビヌスと手を結んで彼を副帝に指名して懐柔すると、東方属州へ遠征を開始した。 イッススの戦い でニゲル軍を破ると、一年間を費やして東方属州からニゲル派の勢力を駆逐し、また後ろ盾であった パルティア帝国 を押さえ込む事に集中した。そして東方の動乱を鎮めると、約束を反故にする形で息子のカラカラを新たな副帝に指名すると宣言、激怒したアルビヌスは再び軍を起こして抵抗した。 ルグドゥヌムの戦い は ダキア ・ モエシア ・ イリュリア の軍勢を中核にしたセウェルス軍の前にアルビヌス軍が大敗を喫して、アルビヌスは戦死した。. テオドシウス1世 アルカディウス と ホノリウス で領土分割、以後 東ローマ帝国 と 西ローマ帝国 に分裂が恒久化.